いのちのたべかた

私がこの映画を観ても、特に得るところはなかろうと思っていたのですが、
娘も行く気になってくれたことだし、とりあえず観ておくか、ということになりました。
もはや昨年のことになってしまいましたが。

まあ・・・心から疲れました。


邦題に違和感。
自虐的。嘲笑的とすら思える。
そして、本質から巧妙に意識をそらしてはいないか?と思えますね。
そしてあなたも共犯者なのだよ、とでも言いたいのか?と突っ込みたくもなります。 

簡単に言うと、動物虐待の現場を淡々と映した映画。
殺されるために人工授精によって生まれ、飼育されるのです。

で、動物を食べなくても人間は生きていけるという話題は無視、なわけです。

いのち、なんて邦題をつけられているけれど、彼らは決して「いのち」として扱われてはいない。

モノだ。

お金に変えられることを目的として”製造されたもの”たち。

                      
すでに私は、怒りも悲しみも昇華した気でいました。
でもやはり・・・

泣きましたね。
人間の非情さに?
愚かさに?

その凄惨さには、耐え難いものがあります。

もはやそれは食べ物でも、いのちでもなく・・・

「商品」という無機質なものとして扱われています。

すでに私はああいった心のない食品とは縁を切ったつもりです。

しかしきつかった・・・

淡々と鳥や豚や牛を殺し、
淡々と足を切り落とし、
淡々と腹部を切り裂き、血を抜き、内臓を取り出して・・・淡々と淡々と、続く「作業」。
しかもそれは、人間が生きるためというもっともらしい、作られた理由のために。

観終わってからひどい嫌悪感に、魂の底から気分が悪かったです。
現実とはかくも醜悪なものなのだよ、と悪質な皮肉をたたきつけられたようでした。
そしてこれを観てもなお、肉を食べ続ける人はごく普通に存在しつづけるのであろう。
と思うとまた嫌な気分でした。

そこで働いている人たちの表情にはゾッとするものがありました。
いえ、表情はなくてひたすらロボットのように同じ作業を繰り返していました。
まるで「リべリオン」に出てくる、感情を失った人達そっくりでした。
感情を麻痺させていくしかできないようなことを、なぜやり続けているのか?
それは、私には決してできないことのひとつです。そんな生き方はできません。

作業の間に食事をしているシーンが入るのですが(上の画像がそれ)、食べているものの質も非常に悪そうで、そしてとてもまずそうに食べていました。

食べるということ、生きるということは、そんなんじゃないだろう・・・
と思いながら私は、帰りたくてしかたがない気持ちをおさえつつ、耐えていました。

私たちが今やっている仕事は、この映画で映し出される世界とは対極にあるものだと思いました。
効率のみを追求していくと、こうなります、という映像の連続でした。
改めて、このような機械化というものからは断じて創造性は生まれないと思いました。
つまりそれは、人間の本質から遠ざかっていくばかりなのだということです。

それにしても、効率を追求しているとはいえ、肉食って無駄が多いなあとつくづく思いました。

しかし、観に行ってよかったのかもしれません。
娘に、現状をしっかり理解してもらえて良かったし。
世界中の学校で観てほしいですね。

頑張ろう、それしかないね、と娘と2人で確認しあったのでした。